初期仏教

2010年7月 4日 (日)

こよなき幸せ

「吉祥経」として親しまれてきたお経があります。スッタニパータ(経集)という初期仏教典に含まれいるものです。岩波文庫では、「ブッダのことば」(中村元 著)の中で、「こよなき幸せ」というタイトルで翻訳されています。

諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者たちに親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、-これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願をおこしていること、-これがこよなき幸せである。
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、-これがこよなき幸せである。
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、-これがこよなき幸せである。
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、-これがこよなき幸せである。
悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、-これがこよなき幸せである。
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、-これがこよなき幸せである。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、-これがこよなき幸せである。

カウンセリングで関係深いのは最後の一文だと思います。
名利にとらわれ、世評を気にし、あれこれ悩み、酒に溺れ、心穏やかなことがない。なんだか自分のことを言われているような気がしてきます。「そんなの関係ない」と思えればいいのですが。

2010年6月30日 (水)

一夜賢者経

中部経典の中に一夜賢者経というお経があります。

  過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを念うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり
 未来、そはいまだ到らざるなり
 されば、ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし
 揺ぐことなく、動ずることなく
 そを見きわめ、そを実践すべし
 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
 たれか明日死のあることを知らんや
 まことに、かの死の大軍と
 逢わずいうは、あることなし
 よくかくのごとく見きわめたるものは
 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
 かくのごときを、一夜賢者といい
 また、心しずまれる者とはいうなり

過去のことを思い煩うな、未来のことを思い煩うな。
ただ、今のことを思え。ということです。
カウンセリングでも「今、ここに」を大切にします。
人は、過去のことにどうしても引きずられます。
「あの時、・・・たら」
「あの時、・・・れば」
いわゆる「たら、れば」に引っ張られてしまう。

パソコンには、ALL DELETE 機能があります。
ALL DELETE してしまえば、何も残らない。
人の場合は、ALL DELETE しようと思っても
なかなかできない。
「忘れることができる能力」はけっこう重要な
要素だと思います。

2010年6月13日 (日)

われというものはない。またわがものというものもない。

「諸法無我」といわれていることです。辞書的に説明をつけると、「すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんら実体的なものがないということ」となります。

つまり、「諸法無我」は「諸行無常」と対になっています。

初期仏典の中では次のように解説されています。

「・・・したがって彼は、色(もの)は我である、我は色を有す。我の中に色がある、色の中に我がある、と見るであろう。そこに迷いのもとが存するのである。

なんとなれば、彼はかく見るがゆえに、無常なるものを無常なりと、あるがままに知ることを得ない。苦であるものを苦であると、あるがままに知ることを得ない。また、無我なるものを無我であると、如実に知ることができない。一切は因縁のむすぶがままに有り、また、一切は因縁の解けるがままに壊するものであるのに、そのことを彼は、ありのままに知ることができないのである。・・・」 (相応部経典 22.55優陀那)

経典では、五蘊(色・受・想・行・識)はすべて無常であり、無我であり、壊するものであると続けています。そしてこの「諸法無我」をよく理解したならば、欲界における五つの煩悩(貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑)を断つことができるとしています。

2010年6月12日 (土)

第二の箭を受けず

「未だ正法を聞かざる凡夫は二種の受を感ずる。

 それは身における受と心における受とである。

 それはたとうれば、第一の箭をもって刺され、

 さらに第二の箭をもって刺されるに似ている。

 彼はいまだ正法を了知せざるがゆえに、

 もし五欲において楽受をうければ、それに愛執するがゆえに、

 さらにたちまち欲貪の煩悩の縛するところとなる。

 またもし苦受をうくることあれば、それに対して瞋恚を生ずるがゆえに、

 また瞋恚の煩悩のとらうるところとなる。

 それに反して、すでに教法を聞くことを得たる聖弟子は、

 ただ一つの受を感ずるのみである。

 すなわち彼は、身における受は感ずるけれども、

 心における受を感ずることはないであろう。

 これをたとうれば、第一の箭をもって刺され、

 第二の箭を受くることなきに似ている。

 なんとなれば、かれはすでに正法を知るがゆえに、

 もし五欲において楽受をうけても、

 かれはこれに愛執することなきがゆえに、

 その心をさわがしその意を乱すにいたらず。

 またもし苦受を味わうことがあっても、

 彼はそれに対して瞋恚を生ずることなきがゆえに、

 また煩悩の擾乱するところがない。

 これを第二の箭を受くることなしというのである」

                (相応部経典36.6 箭)

引用が長くなりましたが、我々が五感で何かの感覚を得ることが、第一の箭(矢)です。

その感覚から生じる感情/思いが、第二の箭(矢)です。

お釈迦様の説いた法を理解して、法に従って行動しているものは、

第一の箭に振り回されることはなく、心が動揺しないということです。