道元禅師

2010年8月11日 (水)

時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。これ有時なり。(有時)

現代語訳すれば、「もし時がわれの内を過ぎ行くものであるとしても、われの内には、常に現在がある。それが有時というものである。」ということになるかと思います。「有時」は普通に読めば、「ある時」となるのですが、道元禅師は「有」を「存在」と解釈して、「存在」と「時間」とについて、お考えを展開しています。ハイデガーの先取りのようなものです。

時間は時々刻々過ぎ去っていっていきます。それをわれわれは「過去・現在・未来」という概念で理解しています。しかし厳密に考えると、「過去」は脳の記憶であり、「未来」は脳の思考です。現実に体験しているのは、「現在」しかありません。「今、ここに」がずっとゴロゴロ転がって行くイメージです。

話は変わりますが、数学にフーリエ変換があります。時間ごとに捉えたデータをフーリエ変換すると、スペクトルになります。例えば地震の動きをフーリエ変換すると、周波数ごとの動きの頻度が判ります。時々刻々の動きでは判らなかった地震の特徴が、スペクトルにすると一目瞭然にわかるのです。これと同じ事で、過去の自分の体験がフーリエ変化されて現在の自分にたたみ込まれている。どうもそんな風に感じられます。

2010年7月25日 (日)

渾身(うんしん)の照見、五蘊(ごうん)皆空(かいくう)なり (正法眼蔵 摩訶般若波羅密)

仏教では、身心の作用を「五蘊」として理解します。「五蘊」とは、色・受・想・行・識の五つのことを言います。「色」は物質のことを表します。直接的には身体のことです。「受」は感受。外界の印象を受け入れることです。「想」は、表象作用。感受したものから心の中に生じるイメージです。「行」は意志。「識」は知識・認識です。受胎してからの情報のストックです。心の作用を、感じてイメージして、意志を加えて認識すると分析したわけです。
「空」とは自性はないということ。固定的実体はなく、すべては関係性の中で変化し続けているということです。
「五蘊皆空」ですから、人間の身心の作用は関係性の中で変化し続けているということになります。」
「渾身」とは全身をもってということ。「照見」とは、照らし見た、直感的に悟ったということです。
「渾身の照見、五蘊皆空なり」は、人間の身心の作用は関係性の中で変化し続けているということを全身で直感的に悟ったということになります。

カウンセリングにおける認知療法や論理療法では、出来事に対してダイレクトに感情が生じるのではなく、その間に認知が関与しているとします。同じ出来事に対しても人によって生じてくる感情が違うのは、認知が違うからだとしています。同じ出来事に対してもショックと感じる人もいれば、ラッキーと感じる人もいる。
心の作用を「受・想・行・識」と分析したのは、認知療法や論理療法の考え方にとてもよく似ています。「心の作用は空(固定的なものではなく、関係性の中で変化し続けている)なのだよ」とお釈迦さまは2500年も前に言っているのです。
「五蘊皆空」がお腹の中にしっかりと坐っていれば、悩む必要もなくなってくるのかもしれません。

2010年7月19日 (月)

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。 (正法眼蔵 現成公案)

自分が主体になってものごとを実証するのは迷いである。取り巻く環境が自分を証明しはじめれば、悟りの域に達したといっていい。

「自己」を「自我」、「万法」を「自然の摂理」と考えると理解しやすいと思います。「自然の摂理」を「宇宙意識」といってもいいと思います。「おれが、おれが、・・・」ではなく、宇宙との一体感が感じられ、その一体感から自然と行動が導かれる。そんな状態がさとりだということです。会社でも、一生懸命自己PRする人がいます。本人は一生懸命なのですが、なんとなく浮いている。それとは逆に、「これはあの人でなくては」と皆が感じて、自然としかるべきポジションにはまっていく人がいます。状況がその人を求めるといった感じです。

「万法すすみて自己を修証する」ために具体的にはどうしたらいいか? 禅家が教えるところは、坐禅の実践です。坐禅に親しみのない一般人はどうしたらいいか? 人の話しをよく聞くことだと思います。ただ、うなづきトリオではダメで、何か活用できることはないかといった姿勢をもって、聞き入ることが重要です。教えてもらう姿勢といってもいいと思います。

2010年7月11日 (日)

感応道交するところに、発菩提心するなり。(正法眼蔵 発菩提心)

「感」は衆生が仏菩薩の救済しようとする心を感じることを意味し、「応」は仏菩薩がさとりをもとめる衆生の願いに応ずることをあらわします。「道交」とは衆生と仏菩薩の心が行き交い、共鳴することです。「菩提心」とは、さとりを求める心で、「発菩提心」は、さとりを求める心を起こすことです。何かに触れて心を動かし、何かをやろうと決心する。

似たような言葉に「卒啄同時」があります。ヒナが殻を突き破る時に、母鳥も口ばしで殻をつつき、ヒナが孵るのを手伝うことです。師匠と弟子が感応道交する。親と子が感応道交する。カウンセラーとクライアントが感応道交する。それによって弟子や子やクライアントが何かのきっかけをつかむ。そんな出会いをしたいものです。

2010年7月10日 (土)

前後ありといへども、前後際断せり (正法眼蔵 現成公案)

「前後裁断」に関して、「現成公案」には、二つのたとえ話が出てきます。一つは「薪」と「灰」の話です。普通私たちは、薪が燃えて灰になると考えます。燃焼という化学反応によって薪が灰になる。だから薪と灰は連続している。ところが道元禅師は、そうは見ません。薪はあくまでも薪であって、灰はあくまでも灰である。もう一つの喩は、「春」と「夏」の関係です。春が夏になるのではなく、春はあくまでも春であり、夏はあくまでも夏である。
仏教では、「刹那生滅」という考え方があります。時間は連続しているのではなく、八ミリフィルムのように一瞬一瞬がこま切れになっている。宮沢賢治は、これを「有機交流電燈」と表現しました。「人生の一コマ一コマ」という表現があります。人生は連続したものではなく、一コマ一コマの断続したものである。
人はどうしても前の結果に引っ張られます。例えばテニスの試合でミスをすると、それが気になって後のプレーがおかしくなる。「気分を変えて次のプレーに集中しましょう」解説者がよくいうことです。解説者だから簡単に言えるのであって、当のプレーヤーは中々それができない。逆に言うと、それができるのが一流プレーヤーということになります。
うつ病は、前後裁断できなくなった状態といってもいいと思います。「もうだめだ・・・もうだめだ・・・もうだめだ・・・」という前後無裁断スパイラルに陥って抜け出せなくなる。日頃「前後裁断。前後裁断。前後裁断」と呪文のように唱えるのは、意外と効果があるように思います。

2010年6月29日 (火)

自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。 (弁道話)

前後の関連する文章も含めると次のようになります。

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。この三昧に遊化(ゆけ)するに、端坐参禅を正門とせり。」

                   
「阿耨菩提」とは、仏様の無上の正しい完全な智慧ということです。「自受用」とは、西嶋老師によれば、「自受」と「受容」にわけるとわかりやすいということです。「自受」とは自分自身を受け止めること、「受容」とは自分自身を使いこなすこと。つまり、自分で自分を受け止め、自分で自分を使いこなすということになります。「三昧」とは、心を静めて一つの対象に集中し、心を散らさず乱さない状態です。つまり「自受用三昧」とは、自己本来の面目をして、その自己本来の面目を生き切る境地のことを言っています。そしてこの境地に入っていくためには、端坐参禅つまり座禅すればいい、ということです。

ステップをあらわすと、端坐参禅→→→自受用三昧→→→阿耨菩提となります。

カウンセリングの世界に「自律訓練法」という療法があります。仏教の専門家には怒られるかもしれませんが、「自律訓練法」は坐禅と通じるところがあるように感じます。
「自律訓練法」は、ドイツのシュルツ博士が開発したもので、ストレス解消に役立ちます。深い意味からすると坐禅と自律訓練法は違うのかもしれませんが、心身のバランスをよくするという意味では、似ているところがあるように思います。

心身のバランスがよくなれば、自分自身を自分自身で使いこなすことができるようになる。自分自身を自分自身で使いこなすことができるようになれば、悟りに近づくことができる。「悟り」を「心の安定」だと考えれば、端坐参禅→→→自受用三昧→→→阿耨菩提のステップは納得できるところだと思います。

2010年6月27日 (日)

利行(りぎょう)というは貴賎の衆生に於きて利益(りやく)の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

「利行」とは、「利他行」のことで、他のために尽力することです。「利益」とは、仏の教えに従って行動することによって得られる恩恵や救済のことです。「善巧」とは、「善巧方便」のことで、臨機応変に色々巧みな方法によって人を導くことです。
                   
よくGive&Takeといいますが、Takeが目的で、Giveするのであれば、利行にはなりません。Takeを放棄したGiveが利行です。困った人がいれば何とかしてあげたくなるのが人情です。ただ、お礼を期待したり、助けてあげたんだという自尊心があると利行ではなくなってしまいます。

宮澤賢治は法華経の精神で生き抜いた人といわれていますが、有名な「雨ニモマケズ」は、利行のこころを表したものと言ってもいいと思います。「雨ニモマケズ」の詩は、皆さんご存知だと思いますので、パロディ版を作ってみました。

 雨にも負けて 風にも負けて 雪にも夏の暑さにも負ける
ひ弱な身体を持ち そのくせ欲は強く 
しょっちゅう怒り いつもイライラしている
食事はインスタント食品で済ませ
あらゆることに自分が一番で
勉強なんかもってのほか
そして何も覚えていない
ゴミだらけの部屋にとじこもり
東に病気の子供あれば 勝手に病気になったんだろと言い
西に疲れた母あれば 養老院へ行けと言い
南に死にそうな人あれば もう寿命だと言い
北に喧嘩や訴訟があれば もっとやれとけしかける
夏は冷房をガンガンつけ
冬は暖房をガンガンつける
みんなに「なんてやつだ」と言われ
叱られもせず どうでもいいと思われる
そんな私に 誰がした

作ってみると、自分に当てはまることも少なからずあり、「利行」にはまだまだかなと思った次第です。

2010年6月24日 (木)

彼が報謝を貪らず、自らが力を頒(わか)つなり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

布施をする場合には、「相手から何の報酬をも期待せずに、自分のできることをする」ということです。お金持ちは、財を施せばいい。では、財力のない人はどうしたらいいでしょうか。仏教では「無財の七施」ということが言われます。次に列挙する七つの布施のことです。

 1.眼施 :暖かいまなざしで接する
  2.和顔施:笑顔で接する
 3.言施 :思いやりに満ちた言葉をかける
 4.身施 :立って出迎えたり、思いやりをこめて挨拶する
 5.心施 :徹底した思いやりや心遣いをはたらかせる
 6.床座施:座席を譲る
 7.房舎施:家に招き入れてもてなし、宿泊させてあげる

無財の七施のうち「眼施」「和顔施」「言施」「身施」「心施」は、カウンセリングにおける「かかわり行動」であり、基本となるカウンセラーの態度に通じると思います。在家信者は、出家者に対し財施し、出家者は在家信者に法施します。カウンセラーはクライアントに対して何を布施すればいいのか。クライアントは、カウンセリング料を支払い、カウンセラーは、クライエントが心の安定を獲得するためのきっかけを布施するのだと思います。

2010年6月23日 (水)

その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。 (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

「布施とは貪らないことだ」と、道元禅師は言っています。「むさぼらない」ということは、「わがものに固執しない」ということですから、「無我」ということと同じです。

多かれ少なかれ我々は、世の中にへつらいながら生きています。何故へつらうかというと、結局自分が得をすると考えているからです。従って、貪らなければ、へつらう必要もないということになります。

「布施」が行われると、えてして、上下関係、主従関係、優劣関係が生まれます。「布施」することによって得られる見返りを求めないことが本来の布施の意味である、ということを「むさぼらず」「へつらわず」という言葉で表現したのだと思います。

2010年6月22日 (火)

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

同事ということは、区別や差別をつけないことです。自分に対しても他人に対しても区別や差別をしない。逆に言うと、自分を認め、他人を認めることです。

カール・ロジャーズはカウンセラーの必要にして十分な条件として、受容・共感・自己一致を挙げています。

「受容」とは、相手をそのまま受け入れること。どんな相手であっても、あるいはその人の考え方や行動が容認できなくても、選択したり、評価することなく、すべてを受け入れることです。

「共感」とは、相手の見方、感じ方、考え方を、その人の身になり立場になって、見たり、感じたり考えたりすることです。

「自己一致」とは、うわべを飾ったり、見せかけの態度でなく、ありのままの自分でいるということです。

他人を認めるのは、「受容・共感」。自分を認めるのは、「自己一致」です。「自にも不違なり、他にも不違なり」は、「受容・共感・自己一致」といってもいいかと思います。