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2012年8月

2012年8月23日 (木)

お釈迦さまのカウンセリング No6 【心とは】

 【心とは】                           お釈迦さまのカウンセリング No6
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          心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。
          その心をおさめることは善いことである。
          心をおさめたならば、安楽をもたらす。
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                                            法句経 第35偈

「こころ」とは一体なんでしょうか。「心」という漢字はもともと心臓を象形したものです。
古代中国人は心臓で精神作用が営まれていると考えました。知識・感情・意志の
いわゆる知・情・意をつかさどるものとしたわけです。最近では脳科学の発達から、
脳が知・情・意を生み出しコントロールしていると考えられていまが、内臓や皮膚も
かかわっているという説もあり、はっきりとはしていない部分も多いようです。

いずれにしても、法句経第35偈にあるように、心とは勝手に動き回りコントロールの
難しいものです。修行とは心をコントロールすることができるようになることとしても
いいように思います。

フロイトは、心が「自我」「超自我」「エス」の3つの構造からなっていると考えました。
「自我」とは、私のコントロール・タワーです。「超自我」とは、親の教育などによって
形成された価値判断です。「エス」とは本能的エネルギーです。自動車の運転に
たとえると、「自我」は運転者、「超自我」はブレーキ、「エス」はアクセルにあたります。

江戸時代初期の至道無難禅師が面白い歌を作っています。
 心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな
最初の心はフロイトのいう「エス」です。二番目の心は「自我」だと思います。
どんな人にもジギルとハイドのように心には葛藤する人格が存在すると考えて
おくことが、人間理解の前提になるような気がします。

2012年8月19日 (日)

お釈迦さまのカウンセリングNo5 仏教における人間観 【一切皆苦】

仏教における人間観 【一切皆苦】
                                           お釈迦さまのカウンセリングNo5
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       一切の形成されたものは苦しみであると明らかな智慧をもって観るときに、
       ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
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                                                   法句経 第278偈


「四苦八苦」という言葉がありますが、これはもともと仏教の言葉です。「四苦」とは、生・老・病・死、
すなわち、生まれて、老いて、病気になり、死ぬ、四つの苦しみをいいます。生・老・病・死に「愛別離苦
(あいべつりく)」 「怨憎会苦(おんぞうえく)」 「求不得苦(ぐふとっく)」 「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」を
加えて八苦といいます。

「愛別離苦」とは愛する人と別れる苦しみです。
「怨憎会苦」とは、いやな人、嫌いな人とも会わなければならない苦しみをいいます。
いやな上司であれば、毎日毎日「怨憎会苦」の苦しみを味わうことになります。
「求不得苦」とは、お金や物、地位や名誉など求めるものが手に入らない苦しみです。
「五蘊盛苦」の五蘊は、人間を肉体と四つの精神作用(感受作用、表象作用、心的形成作用、認識作用)
で捉えたものです。五蘊がうまく和合しているときはいいのですが、五蘊仮和合の実体ですから、
生きるエネルギーはどこかで不調和を生じ苦しみの原因になります。身心を思うようにコントロール
できない苦しみです。

お釈迦さまのいう「苦しみ」とは、「思い通りにならないこと」という意味です。
「一切のことは思い通りにならないものだ」と思っていれば、悩むことは少なくなります。
ただ「思い通りにならないものだから、努力することも意味がない」とすねてしまうのは、
お釈迦さまの教えとは反します。お釈迦さまは、不放逸(ふほういつ)ということをとても大切にされました。
怠けないということです。
怠けないで努力し、それが結果に結びつけば、「ありがたいことだ」と感謝することです。
えてしていい結果が出ると人は傲慢になります。つつしんでいきたいものです。

2012年8月16日 (木)

お釈迦さまのカウンセリングNo4 仏教における人間観 【諸法無我】

仏教における人間観 【諸法無我】
                                          お釈迦さまのカウンセリングNo4
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      一切の事物は我ならざるものであると明らかな智慧をもって観るときに、
      ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
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                                                  法句経 第279偈

一般的には、「我」とは「自我」、すなわち意識者が他の意識者及び対象から、自らを区別することを言い
ますが、仏教における「我」は少々意味が違います。お釈迦さま以前のインド哲学者たちは、我々の中に、
固定的実体があるように考え、それをア-トマン(我)と名づけました。ア-トマン(我)とは、ちょっと難しい
言葉ですが、「常一主宰」と定義されています。単独でなりたち、常住で変化しない存在で、すべてのもの
を統率し支配しているものを支配しているものという意味です。

冒頭の偈は、すべてのものは、「常一主宰でないもの」と考えることが、大いなる智慧であって、その智慧
をもってものごとを観ることができるときに苦しみから遠ざかることができる。それが覚りに近づくことだと
言っています。「常一主宰でないもの」とは、すべては移り行くもの(無常)であり、縁によって成り立つ
もの(縁起)であるということです。従って、前回述べました「無常」と「無我」は基本的に同じことです。

「我」は自分への捉われ、自分への執着につながります。悩みは何らかの形で自分へのこだわりと関連
しています。例えばウツ病の場合、「あるべき自分」と「現実の自分」のギャップに悩み、なんとかしなければ
ならないという思いと、どうにもできない現実のギャップに悩む状態と捉えることができます。「諸法無我」
という認知を自分のものとすることは、ウツ病から遠ざかる一つの道を見つけたことにつながります。

2012年8月14日 (火)

お釈迦さまのカウンセリングNo3 仏教における人間観 【諸行無常】

仏教における人間観 【諸行無常】
                                     お釈迦さまのカウンセリングNo3
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       一切の形成されたものは無常であると明らかな智慧をもって観るときに、
       ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
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                                              法句経 第277偈

仏教には、お釈迦さまが直接説かれたことに忠実な小乗仏教と、お釈迦さまが入滅して
約300年ほどしてから興隆した大乗仏教の二つの流れがあります。日本でポピュラーなのは、
「法華経」「般若経」といった大乗仏教経典です。「法句経」は小乗仏教の中でとても
ポピュラーな経典です。冒頭に掲げた句は、「諸行無常」としてわれわれが認識している
事柄を解説したものです。
この世の中で常なるものは何もなく絶えず変化している。それをよく理解していれば、
  苦しみから逃れることができる。これこそが覚りに至る道である。

諸行無常という言葉から、まず頭に浮かんでくるのは、平家物語の冒頭の一節ではないで
しょうか。
 祗園精舎の鐘の声、
  諸行無常の響きあり。
  娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、
  唯春の夜の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、
  偏に風の前の塵に同じ。
栄華を極めた平家一族の滅亡を諸行無常の響きと修飾しているので、「諸行無常」という
言葉から連想されるのは、「はかなさ、むなしさ」だと思います。

方丈記の冒頭も諸行無常を説いています。
  行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
  世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
ここから受ける印象も、やはり「はかなさ、むなしさ」だと思います。

前回のメルマガで、人間は肉体と四つの精神作用(五蘊)から成り立っていて、これらは
全て移ろい行くもので、変わらないものはないという仏教の人間観を紹介いたしました。
諸行とは一切のことという意味ですから、人間に当てはめれば「五蘊無常」ということに
なります。
平家物語、方丈記の印象が強烈なので、諸行無常=むなしさ、はかなさ、と感じてしまい
ますが、もともとの意味は「全ては恒久的でなく変化する」という意味で、むなしさ、
はかなさという意味ではありません。

兼好法師は、「諸行無常」を逆に変化するから面白いというポジティブな解釈をしています。
  世の中は定めなきこそいみじけれ。(徒然草 第7段)
  折節の移り変わるこそものごとあはれなれ。(同 第19段)
ポジティブにみれば、無常であるからこそ、人間が努力して向上することもできるわけです。

道元禅師は、「志の至らざることは無常を思わざる故なり」として、無常を人間が行動して
いく上での起爆剤としてとらえています。

2012年8月13日 (月)

お釈迦さまのカウンセリングNo2 仏教における人間観【五蘊仮和合】

仏教における人間観【五蘊仮和合】

                                 お釈迦さまのカウンセリングNo2
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           五蘊仮に和合するを名づけて衆生と云うなり。
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                         (三重秘伝抄)
お釈迦さまは、人間を肉体(色)と4つの精神作用(受・想・行・識)に分けて考えました。
この色・受・想・行・識を五蘊といいます。4つの精神作用は次のように解釈されています。
「蘊」とは塊りという意味です。
 受(感受作用)    :六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)を通して外界に
              あるものを受け入れる心の作用のこと
 想(表象作用)    :感覚から生じる認識、イメージとしてはっきり思い描くこと
 行(心的形成作用) :「想」に基づいて起る意志や行動の善悪に関する心の作用
 識(認識作用)   :「受」・「想」・「行」の作用を起こす根本の意識

摩訶止観によると、「識」が心王(心の主)となると説かれています。カウンセリングの
論理療法における「ビリーフ」、認知療法における「スキーマ」に当たります。何かが
起きた時に自動的に心に浮かんでくる考えを認知療法では「自動思考」といいますが、
「想」は「自動思考」と考えることができると思います。「自動思考」と「スキーマ」に
影響されながら、心に色々な思いが形成(「行」)されてきます。
心の作用を「受」「想」「行」「識」に分析し理解したことは、認知療法における心の
分析ととてもよく似ています。

仏教では、この肉体と4つの精神作用が仮に一緒になったものが人間だと認識します。
相応部経典では、
「人の肉体は渦巻のごとくである、
その感覚は泡沫のごとくである。
その表象はかげろうのごとくである、
その意志は芭蕉のごとくである、
その意識はまぼろしのごとくである。」としています。
肉体も心の動きもすべて移ろい行くもので、変わらないものはないという認識です。

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