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2010年7月

2010年7月25日 (日)

渾身(うんしん)の照見、五蘊(ごうん)皆空(かいくう)なり (正法眼蔵 摩訶般若波羅密)

仏教では、身心の作用を「五蘊」として理解します。「五蘊」とは、色・受・想・行・識の五つのことを言います。「色」は物質のことを表します。直接的には身体のことです。「受」は感受。外界の印象を受け入れることです。「想」は、表象作用。感受したものから心の中に生じるイメージです。「行」は意志。「識」は知識・認識です。受胎してからの情報のストックです。心の作用を、感じてイメージして、意志を加えて認識すると分析したわけです。
「空」とは自性はないということ。固定的実体はなく、すべては関係性の中で変化し続けているということです。
「五蘊皆空」ですから、人間の身心の作用は関係性の中で変化し続けているということになります。」
「渾身」とは全身をもってということ。「照見」とは、照らし見た、直感的に悟ったということです。
「渾身の照見、五蘊皆空なり」は、人間の身心の作用は関係性の中で変化し続けているということを全身で直感的に悟ったということになります。

カウンセリングにおける認知療法や論理療法では、出来事に対してダイレクトに感情が生じるのではなく、その間に認知が関与しているとします。同じ出来事に対しても人によって生じてくる感情が違うのは、認知が違うからだとしています。同じ出来事に対してもショックと感じる人もいれば、ラッキーと感じる人もいる。
心の作用を「受・想・行・識」と分析したのは、認知療法や論理療法の考え方にとてもよく似ています。「心の作用は空(固定的なものではなく、関係性の中で変化し続けている)なのだよ」とお釈迦さまは2500年も前に言っているのです。
「五蘊皆空」がお腹の中にしっかりと坐っていれば、悩む必要もなくなってくるのかもしれません。

2010年7月19日 (月)

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。 (正法眼蔵 現成公案)

自分が主体になってものごとを実証するのは迷いである。取り巻く環境が自分を証明しはじめれば、悟りの域に達したといっていい。

「自己」を「自我」、「万法」を「自然の摂理」と考えると理解しやすいと思います。「自然の摂理」を「宇宙意識」といってもいいと思います。「おれが、おれが、・・・」ではなく、宇宙との一体感が感じられ、その一体感から自然と行動が導かれる。そんな状態がさとりだということです。会社でも、一生懸命自己PRする人がいます。本人は一生懸命なのですが、なんとなく浮いている。それとは逆に、「これはあの人でなくては」と皆が感じて、自然としかるべきポジションにはまっていく人がいます。状況がその人を求めるといった感じです。

「万法すすみて自己を修証する」ために具体的にはどうしたらいいか? 禅家が教えるところは、坐禅の実践です。坐禅に親しみのない一般人はどうしたらいいか? 人の話しをよく聞くことだと思います。ただ、うなづきトリオではダメで、何か活用できることはないかといった姿勢をもって、聞き入ることが重要です。教えてもらう姿勢といってもいいと思います。

2010年7月11日 (日)

感応道交するところに、発菩提心するなり。(正法眼蔵 発菩提心)

「感」は衆生が仏菩薩の救済しようとする心を感じることを意味し、「応」は仏菩薩がさとりをもとめる衆生の願いに応ずることをあらわします。「道交」とは衆生と仏菩薩の心が行き交い、共鳴することです。「菩提心」とは、さとりを求める心で、「発菩提心」は、さとりを求める心を起こすことです。何かに触れて心を動かし、何かをやろうと決心する。

似たような言葉に「卒啄同時」があります。ヒナが殻を突き破る時に、母鳥も口ばしで殻をつつき、ヒナが孵るのを手伝うことです。師匠と弟子が感応道交する。親と子が感応道交する。カウンセラーとクライアントが感応道交する。それによって弟子や子やクライアントが何かのきっかけをつかむ。そんな出会いをしたいものです。

2010年7月10日 (土)

前後ありといへども、前後際断せり (正法眼蔵 現成公案)

「前後裁断」に関して、「現成公案」には、二つのたとえ話が出てきます。一つは「薪」と「灰」の話です。普通私たちは、薪が燃えて灰になると考えます。燃焼という化学反応によって薪が灰になる。だから薪と灰は連続している。ところが道元禅師は、そうは見ません。薪はあくまでも薪であって、灰はあくまでも灰である。もう一つの喩は、「春」と「夏」の関係です。春が夏になるのではなく、春はあくまでも春であり、夏はあくまでも夏である。
仏教では、「刹那生滅」という考え方があります。時間は連続しているのではなく、八ミリフィルムのように一瞬一瞬がこま切れになっている。宮沢賢治は、これを「有機交流電燈」と表現しました。「人生の一コマ一コマ」という表現があります。人生は連続したものではなく、一コマ一コマの断続したものである。
人はどうしても前の結果に引っ張られます。例えばテニスの試合でミスをすると、それが気になって後のプレーがおかしくなる。「気分を変えて次のプレーに集中しましょう」解説者がよくいうことです。解説者だから簡単に言えるのであって、当のプレーヤーは中々それができない。逆に言うと、それができるのが一流プレーヤーということになります。
うつ病は、前後裁断できなくなった状態といってもいいと思います。「もうだめだ・・・もうだめだ・・・もうだめだ・・・」という前後無裁断スパイラルに陥って抜け出せなくなる。日頃「前後裁断。前後裁断。前後裁断」と呪文のように唱えるのは、意外と効果があるように思います。

2010年7月 4日 (日)

こよなき幸せ

「吉祥経」として親しまれてきたお経があります。スッタニパータ(経集)という初期仏教典に含まれいるものです。岩波文庫では、「ブッダのことば」(中村元 著)の中で、「こよなき幸せ」というタイトルで翻訳されています。

諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者たちに親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、-これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願をおこしていること、-これがこよなき幸せである。
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、-これがこよなき幸せである。
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、-これがこよなき幸せである。
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、-これがこよなき幸せである。
悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、-これがこよなき幸せである。
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、-これがこよなき幸せである。
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、-これがこよなき幸せである。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、-これがこよなき幸せである。

カウンセリングで関係深いのは最後の一文だと思います。
名利にとらわれ、世評を気にし、あれこれ悩み、酒に溺れ、心穏やかなことがない。なんだか自分のことを言われているような気がしてきます。「そんなの関係ない」と思えればいいのですが。

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