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2010年6月 6日 (日)

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。」(正法眼蔵 現成公案)

この言葉は、道元禅師の言葉の中で最もよく知られているものの一つです。この言葉に続くのは、
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

「仏道をならう」ことは、「自己を究明する」ことです。
ここでいう「自己」は本来の自分自身です。
そのためには、「自己を忘れれ」ばいい。
ここの「自己」は、自意識的自我です。
「自己を忘れる」ためには、「万法に証せられれ」ばいい。
「万法に証せられる」ためには、「自己の身心及び他己の身心を脱落させれれ」ばいい、ということになります。
「身心脱落」がちょっとわかりにくい言葉ですが、漢字を足して熟語にしてみると、理解しやすくなります。「脱」は解脱の意味で、すべての束縛から解放された無礙自在の状態です。「落」は酒落(しゃらく)の意味で、物事に頓着せず、さっぱりとしてわだかまりの無いことです。従って、「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた、わだかまりのない自在の境地になることです。
つまり、自分と自分以外のすべて、つまり宇宙全体は一体であるという意識に目覚めることです。

「仏道をならう」ということは言い換えれば「さとりの境地に至る」ということです。そのためには、自己をならいなさい。「ならいなさい」ということは、究明しなさいということです。禅の目的は「己事究明」にあるとされています。自分の内的世界を掘り下げなさいということです。自分の内的世界を掘り下げるためには、「自己を忘れなさい」といっています。ここがちょっと難しい。この自己は、「自我」です。仏教で言う「自我」は、我々がイメージする「自我」とは少しニュアンスが違います。
仏教の根本原理に、「諸法無我」があります。色々なこと(諸法)に我は無いのだよ、ということです。この「我が無い」ということが分かりにくい。もともと「我」はインドの言葉では、「アートマン」です。お釈迦さま以前のインドでは、世の中を支配するブラフマン(梵天)に対して、個々の人間はアートマンと考えられていました。それをブッダは個々のアートマンなんか無いのだよ、と全面的にこれまでの考え方を否定したところから出発しました。すべては「共生的関連性」を持った存在である、という考え方です。なぜ「絶対的独立存在」ではなく「共生的関連性存在」なのか。それは、「諸行無常」だからです。
すべてのものは、変化し続ける存在であり、縁によって成り立つものと考えます。だから「我」ではないのです。従って、「無我」「無常」「縁起」は同じことです。龍樹は「倶舎論」の中で、「我」を「常・一・主・裁」と定義しています。「常住で単一で、自在であって、断割したもの」。「自在であって、断割したもの」というのがちょっとわかりにくいのですが、要は主体的なはたらきを言っています。今の言葉で言えば、エゴということになります。

ちょっとくどくなってしまったので、砕けた言い方をすると「みんな宇宙とつながっているよ」ということになります。約30億年前に地球上に生命が誕生しました。色々な進化を経て人間になっているわけです。ちょっと変わったサルが森から草原へ出て、人類として歩みだしたのが700-800万年前です。アフリカに出現したちょっと変わったサルが移動して、ジャワ原人になったり、北京原人になったりして今のホモサピエンスに至っています。私もあなたも元を辿れば皆一緒。さらにさかのぼれば、単細胞生物。さらにさかのぼれば、ビッグバンとなって、宇宙そのものということになります。だから、「無我」なのです。お釈迦様は、生物の進化の歴史も、宇宙の歴史も知識としては知らなかったでしょうが、天才的直感によって「無我」を感じたのだと思います。道元禅師の著作を読んでいても、これは相対性原理ではないかと思えたり、量子的考え方だなと思えるようなことが出てきます。天才的直感はすごいものです。

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