« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月

2010年6月30日 (水)

一夜賢者経

中部経典の中に一夜賢者経というお経があります。

  過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを念うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり
 未来、そはいまだ到らざるなり
 されば、ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし
 揺ぐことなく、動ずることなく
 そを見きわめ、そを実践すべし
 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
 たれか明日死のあることを知らんや
 まことに、かの死の大軍と
 逢わずいうは、あることなし
 よくかくのごとく見きわめたるものは
 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
 かくのごときを、一夜賢者といい
 また、心しずまれる者とはいうなり

過去のことを思い煩うな、未来のことを思い煩うな。
ただ、今のことを思え。ということです。
カウンセリングでも「今、ここに」を大切にします。
人は、過去のことにどうしても引きずられます。
「あの時、・・・たら」
「あの時、・・・れば」
いわゆる「たら、れば」に引っ張られてしまう。

パソコンには、ALL DELETE 機能があります。
ALL DELETE してしまえば、何も残らない。
人の場合は、ALL DELETE しようと思っても
なかなかできない。
「忘れることができる能力」はけっこう重要な
要素だと思います。

2010年6月29日 (火)

自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。 (弁道話)

前後の関連する文章も含めると次のようになります。

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為(むい)の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。この三昧に遊化(ゆけ)するに、端坐参禅を正門とせり。」

                   
「阿耨菩提」とは、仏様の無上の正しい完全な智慧ということです。「自受用」とは、西嶋老師によれば、「自受」と「受容」にわけるとわかりやすいということです。「自受」とは自分自身を受け止めること、「受容」とは自分自身を使いこなすこと。つまり、自分で自分を受け止め、自分で自分を使いこなすということになります。「三昧」とは、心を静めて一つの対象に集中し、心を散らさず乱さない状態です。つまり「自受用三昧」とは、自己本来の面目をして、その自己本来の面目を生き切る境地のことを言っています。そしてこの境地に入っていくためには、端坐参禅つまり座禅すればいい、ということです。

ステップをあらわすと、端坐参禅→→→自受用三昧→→→阿耨菩提となります。

カウンセリングの世界に「自律訓練法」という療法があります。仏教の専門家には怒られるかもしれませんが、「自律訓練法」は坐禅と通じるところがあるように感じます。
「自律訓練法」は、ドイツのシュルツ博士が開発したもので、ストレス解消に役立ちます。深い意味からすると坐禅と自律訓練法は違うのかもしれませんが、心身のバランスをよくするという意味では、似ているところがあるように思います。

心身のバランスがよくなれば、自分自身を自分自身で使いこなすことができるようになる。自分自身を自分自身で使いこなすことができるようになれば、悟りに近づくことができる。「悟り」を「心の安定」だと考えれば、端坐参禅→→→自受用三昧→→→阿耨菩提のステップは納得できるところだと思います。

2010年6月27日 (日)

利行(りぎょう)というは貴賎の衆生に於きて利益(りやく)の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

「利行」とは、「利他行」のことで、他のために尽力することです。「利益」とは、仏の教えに従って行動することによって得られる恩恵や救済のことです。「善巧」とは、「善巧方便」のことで、臨機応変に色々巧みな方法によって人を導くことです。
                   
よくGive&Takeといいますが、Takeが目的で、Giveするのであれば、利行にはなりません。Takeを放棄したGiveが利行です。困った人がいれば何とかしてあげたくなるのが人情です。ただ、お礼を期待したり、助けてあげたんだという自尊心があると利行ではなくなってしまいます。

宮澤賢治は法華経の精神で生き抜いた人といわれていますが、有名な「雨ニモマケズ」は、利行のこころを表したものと言ってもいいと思います。「雨ニモマケズ」の詩は、皆さんご存知だと思いますので、パロディ版を作ってみました。

 雨にも負けて 風にも負けて 雪にも夏の暑さにも負ける
ひ弱な身体を持ち そのくせ欲は強く 
しょっちゅう怒り いつもイライラしている
食事はインスタント食品で済ませ
あらゆることに自分が一番で
勉強なんかもってのほか
そして何も覚えていない
ゴミだらけの部屋にとじこもり
東に病気の子供あれば 勝手に病気になったんだろと言い
西に疲れた母あれば 養老院へ行けと言い
南に死にそうな人あれば もう寿命だと言い
北に喧嘩や訴訟があれば もっとやれとけしかける
夏は冷房をガンガンつけ
冬は暖房をガンガンつける
みんなに「なんてやつだ」と言われ
叱られもせず どうでもいいと思われる
そんな私に 誰がした

作ってみると、自分に当てはまることも少なからずあり、「利行」にはまだまだかなと思った次第です。

2010年6月24日 (木)

彼が報謝を貪らず、自らが力を頒(わか)つなり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

布施をする場合には、「相手から何の報酬をも期待せずに、自分のできることをする」ということです。お金持ちは、財を施せばいい。では、財力のない人はどうしたらいいでしょうか。仏教では「無財の七施」ということが言われます。次に列挙する七つの布施のことです。

 1.眼施 :暖かいまなざしで接する
  2.和顔施:笑顔で接する
 3.言施 :思いやりに満ちた言葉をかける
 4.身施 :立って出迎えたり、思いやりをこめて挨拶する
 5.心施 :徹底した思いやりや心遣いをはたらかせる
 6.床座施:座席を譲る
 7.房舎施:家に招き入れてもてなし、宿泊させてあげる

無財の七施のうち「眼施」「和顔施」「言施」「身施」「心施」は、カウンセリングにおける「かかわり行動」であり、基本となるカウンセラーの態度に通じると思います。在家信者は、出家者に対し財施し、出家者は在家信者に法施します。カウンセラーはクライアントに対して何を布施すればいいのか。クライアントは、カウンセリング料を支払い、カウンセラーは、クライエントが心の安定を獲得するためのきっかけを布施するのだと思います。

2010年6月23日 (水)

その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。 (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

「布施とは貪らないことだ」と、道元禅師は言っています。「むさぼらない」ということは、「わがものに固執しない」ということですから、「無我」ということと同じです。

多かれ少なかれ我々は、世の中にへつらいながら生きています。何故へつらうかというと、結局自分が得をすると考えているからです。従って、貪らなければ、へつらう必要もないということになります。

「布施」が行われると、えてして、上下関係、主従関係、優劣関係が生まれます。「布施」することによって得られる見返りを求めないことが本来の布施の意味である、ということを「むさぼらず」「へつらわず」という言葉で表現したのだと思います。

2010年6月22日 (火)

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり (正法眼蔵 菩提薩埵四摂法)

同事ということは、区別や差別をつけないことです。自分に対しても他人に対しても区別や差別をしない。逆に言うと、自分を認め、他人を認めることです。

カール・ロジャーズはカウンセラーの必要にして十分な条件として、受容・共感・自己一致を挙げています。

「受容」とは、相手をそのまま受け入れること。どんな相手であっても、あるいはその人の考え方や行動が容認できなくても、選択したり、評価することなく、すべてを受け入れることです。

「共感」とは、相手の見方、感じ方、考え方を、その人の身になり立場になって、見たり、感じたり考えたりすることです。

「自己一致」とは、うわべを飾ったり、見せかけの態度でなく、ありのままの自分でいるということです。

他人を認めるのは、「受容・共感」。自分を認めるのは、「自己一致」です。「自にも不違なり、他にも不違なり」は、「受容・共感・自己一致」といってもいいかと思います。

2010年6月17日 (木)

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。 (正法眼蔵 菩提薩埵四攝法)

『愛語というのは、人に会ったときに慈愛の心を起こして、やさしいことばをかけることである。決して暴言や悪言を用いないことである。世間では相手の安否を問うのが礼儀である。仏道では「お大事に」とか「ご機嫌いかがですか」というのが礼儀である。赤子に対するような慈愛の心でことばをかけるのである。
相手が徳のある人なら、ほめなさい。相手が徳のない人なら、哀れみ深くしなさい。愛語を好むことによって愛語が広がり、日頃隠れていた愛語までが現前するのである。今の命の続く限り、好んで愛語しなさい。この世においてもあの世においても、退くことなく愛語しなさい。仇敵どうしを柔らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を聞く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。陰で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。
愛語は愛心より起こり、愛心は慈悲をもととしているのである。愛語が天をも廻らす力を持っていることを知りなさい。愛語は相手の長所をほめる以上のことなのである。』

道元禅師は、「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。」としています。キーワードは、「慈心」です。仏教では、「慈悲」を大切にします。「慈」は「慈しみ」「深い友情」であって、他人に楽を与えることがもともとの意味で、「与楽」とも言われます。「悲」は、「悲しみ」「哀れみ」であって、不幸な人に寄り添ってともに悲しみ哀れんで、他人の苦を抜くことで、「抜苦」とも言われます。従って他人に楽を与えるものが、「愛語」ということになります。

では、「愛語」とは具体的にどのようなことでしょうか? カウンセリング的には、「受容」「共感」を表現する言葉といえると思います。「受容」「共感」は、相手の立場に立つことです。「客観」の世界ではなく、相手の「主観的経験」の世界に寄り添うことです。カウンセリングをしていてよく反省することは、「自分の意見を言ってしまったな」ということです。「自分の意見」を言うことが必要なときもあるでしょうが、基本線は、相手の「主観的世界」に寄り添って、それによって理解しえたことをそのまま相手に伝え返すことだと思います。

2010年6月16日 (水)

人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり (正法眼蔵 現成公案)

仏道は広大無辺であるから、仏道がすべてわかってから実践に移ろうなどと考えることははなはだ間違いである。
一つの法(この世の原理)を得たら、その原理に通じ、一つの行(修行)にあったら、その修行を修める。
これは、何かを究めていくときの心得として大いに参考になります。
何かこれはということを知ったら、それがすべてのことに通じる。
すべてを究めないと解らないということではなく、一つがすべてに通じるということです。
そして法(この世の原理)を知ることだけでは、片手落ちで、その後に修行が伴っていないといけない。

「得一法通一法、遇一行修一行」を表した説話があります。
お釈迦さまの弟子の一人、周梨槃特(しゅりはんどく)の話です。
周梨槃特は弟子の中で最も物忘れが激しく、自分の名前すら覚えられない程でした。
おそらく知的障害者だったようです。
周梨槃特は自分のあまりの愚かさに気づきお釈迦さまに破門を願い出ます。
しかし、お釈迦さまは
「自らの愚かさに気付いたのだから、お前はもう愚か者ではない」と述べ、
箒とちり取りを与えました。
「これで毎日掃除をしなさい。ただしその時には『塵を払え 垢を除け』と唱えるのです」
周梨槃特はそれから毎日欠かさず掃除を続け、一心にその言葉を唱え続けました。
そしてある時、お釈迦さまの述べたその言葉の意味に気づきます。
お釈迦さまがいう、真に払い除くべきものは、実は自分の心の中の塵であり垢なのだと。
そして遂に悟りを得たということです。

禅の言葉に「聞思修」という言葉があります。
「聞いて」「思って」「修行する」。
聞きっぱなしではいけない。聞いた後、自分自身で考えて、実際に行動してみて、始めて身につく。
知識として知っているのと、自分でやるのとでは大違いということです。

2010年6月15日 (火)

すベからくしるベし。時光は空くわたらず、人は空くわたることを。(正法眼蔵随聞記)

正法眼蔵随聞記の中には、「光陰虚しくわたることなかれ」ということが何度も出てきます。

巻四-五では次のように述べられています。
古人云く、「光陰虚くわたる事なかれ。」と。
今問う。時光は、をしむによりてとどまるか、をしめどもとどまざるか。
また問う、時光は虚しく渡ず、人虚しく渡るか。
すベからくしるベし。
時光は空くわたらず、人は空くわたることを。

時間が漫然と過ぎていくのではなく、人が時間を漫然と過ごしている。
若いときは時間は無尽蔵にあるように感じますが、
50歳も過ぎ定年も間近になってくると、時間の大切さをひしひしと感じます。
砂時計を見ていると、始めは中々砂が減らないのですが、
最後の細い部分になるとあっという間に砂がなくなってしまいます。
あせります。

「時間を漫然と過ごさない」ためにはどうしたらいいのか?
よく「今日が人生最後の日だと思って、今日を過ごす」と言われます。
「人は皆死刑囚である。遅かれ早かれ必ず死ぬ。」とも言われます。
もし明日が自分の死刑執行の日だったら、今日何をしておきたいか。
そんなことを時々自問自答していきたいと思います。

2010年6月13日 (日)

われというものはない。またわがものというものもない。

「諸法無我」といわれていることです。辞書的に説明をつけると、「すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんら実体的なものがないということ」となります。

つまり、「諸法無我」は「諸行無常」と対になっています。

初期仏典の中では次のように解説されています。

「・・・したがって彼は、色(もの)は我である、我は色を有す。我の中に色がある、色の中に我がある、と見るであろう。そこに迷いのもとが存するのである。

なんとなれば、彼はかく見るがゆえに、無常なるものを無常なりと、あるがままに知ることを得ない。苦であるものを苦であると、あるがままに知ることを得ない。また、無我なるものを無我であると、如実に知ることができない。一切は因縁のむすぶがままに有り、また、一切は因縁の解けるがままに壊するものであるのに、そのことを彼は、ありのままに知ることができないのである。・・・」 (相応部経典 22.55優陀那)

経典では、五蘊(色・受・想・行・識)はすべて無常であり、無我であり、壊するものであると続けています。そしてこの「諸法無我」をよく理解したならば、欲界における五つの煩悩(貪・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑)を断つことができるとしています。

2010年6月12日 (土)

第二の箭を受けず

「未だ正法を聞かざる凡夫は二種の受を感ずる。

 それは身における受と心における受とである。

 それはたとうれば、第一の箭をもって刺され、

 さらに第二の箭をもって刺されるに似ている。

 彼はいまだ正法を了知せざるがゆえに、

 もし五欲において楽受をうければ、それに愛執するがゆえに、

 さらにたちまち欲貪の煩悩の縛するところとなる。

 またもし苦受をうくることあれば、それに対して瞋恚を生ずるがゆえに、

 また瞋恚の煩悩のとらうるところとなる。

 それに反して、すでに教法を聞くことを得たる聖弟子は、

 ただ一つの受を感ずるのみである。

 すなわち彼は、身における受は感ずるけれども、

 心における受を感ずることはないであろう。

 これをたとうれば、第一の箭をもって刺され、

 第二の箭を受くることなきに似ている。

 なんとなれば、かれはすでに正法を知るがゆえに、

 もし五欲において楽受をうけても、

 かれはこれに愛執することなきがゆえに、

 その心をさわがしその意を乱すにいたらず。

 またもし苦受を味わうことがあっても、

 彼はそれに対して瞋恚を生ずることなきがゆえに、

 また煩悩の擾乱するところがない。

 これを第二の箭を受くることなしというのである」

                (相応部経典36.6 箭)

引用が長くなりましたが、我々が五感で何かの感覚を得ることが、第一の箭(矢)です。

その感覚から生じる感情/思いが、第二の箭(矢)です。

お釈迦様の説いた法を理解して、法に従って行動しているものは、

第一の箭に振り回されることはなく、心が動揺しないということです。

2010年6月 7日 (月)

退亦佳矣

竹俣高敏さんが書かれた「退亦佳矣」(文雅堂銀行研究所)を読みました。「退亦佳矣」は、「退くも亦佳し」と読みます。お釈迦さまが霊鷲山で法華経を説かれようとした時、一部のものが退席したのに対し、そのまま許された故事によります。

本の内容は、松本貢介という日立製作所の常務であった方が道元禅師を通じて仏教に魅されていく過程が述べられています。坐禅を四聖諦の見方で解釈している所が印象的でした。

 苦諦の立場(頭でものを考えて理解しようとする見方):非思量

 集諦の立場(感覚を通して外界を観察することによる見方):正身端坐

 滅諦の立場(実際に行なうことによる見方):身心脱落

 道諦の立場(現実を受用する見方):打成一片

2010年6月 6日 (日)

「仏道をならふというふは、自己をならふなり。」(正法眼蔵 現成公案)

この言葉は、道元禅師の言葉の中で最もよく知られているものの一つです。この言葉に続くのは、
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

「仏道をならう」ことは、「自己を究明する」ことです。
ここでいう「自己」は本来の自分自身です。
そのためには、「自己を忘れれ」ばいい。
ここの「自己」は、自意識的自我です。
「自己を忘れる」ためには、「万法に証せられれ」ばいい。
「万法に証せられる」ためには、「自己の身心及び他己の身心を脱落させれれ」ばいい、ということになります。
「身心脱落」がちょっとわかりにくい言葉ですが、漢字を足して熟語にしてみると、理解しやすくなります。「脱」は解脱の意味で、すべての束縛から解放された無礙自在の状態です。「落」は酒落(しゃらく)の意味で、物事に頓着せず、さっぱりとしてわだかまりの無いことです。従って、「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた、わだかまりのない自在の境地になることです。
つまり、自分と自分以外のすべて、つまり宇宙全体は一体であるという意識に目覚めることです。

「仏道をならう」ということは言い換えれば「さとりの境地に至る」ということです。そのためには、自己をならいなさい。「ならいなさい」ということは、究明しなさいということです。禅の目的は「己事究明」にあるとされています。自分の内的世界を掘り下げなさいということです。自分の内的世界を掘り下げるためには、「自己を忘れなさい」といっています。ここがちょっと難しい。この自己は、「自我」です。仏教で言う「自我」は、我々がイメージする「自我」とは少しニュアンスが違います。
仏教の根本原理に、「諸法無我」があります。色々なこと(諸法)に我は無いのだよ、ということです。この「我が無い」ということが分かりにくい。もともと「我」はインドの言葉では、「アートマン」です。お釈迦さま以前のインドでは、世の中を支配するブラフマン(梵天)に対して、個々の人間はアートマンと考えられていました。それをブッダは個々のアートマンなんか無いのだよ、と全面的にこれまでの考え方を否定したところから出発しました。すべては「共生的関連性」を持った存在である、という考え方です。なぜ「絶対的独立存在」ではなく「共生的関連性存在」なのか。それは、「諸行無常」だからです。
すべてのものは、変化し続ける存在であり、縁によって成り立つものと考えます。だから「我」ではないのです。従って、「無我」「無常」「縁起」は同じことです。龍樹は「倶舎論」の中で、「我」を「常・一・主・裁」と定義しています。「常住で単一で、自在であって、断割したもの」。「自在であって、断割したもの」というのがちょっとわかりにくいのですが、要は主体的なはたらきを言っています。今の言葉で言えば、エゴということになります。

ちょっとくどくなってしまったので、砕けた言い方をすると「みんな宇宙とつながっているよ」ということになります。約30億年前に地球上に生命が誕生しました。色々な進化を経て人間になっているわけです。ちょっと変わったサルが森から草原へ出て、人類として歩みだしたのが700-800万年前です。アフリカに出現したちょっと変わったサルが移動して、ジャワ原人になったり、北京原人になったりして今のホモサピエンスに至っています。私もあなたも元を辿れば皆一緒。さらにさかのぼれば、単細胞生物。さらにさかのぼれば、ビッグバンとなって、宇宙そのものということになります。だから、「無我」なのです。お釈迦様は、生物の進化の歴史も、宇宙の歴史も知識としては知らなかったでしょうが、天才的直感によって「無我」を感じたのだと思います。道元禅師の著作を読んでいても、これは相対性原理ではないかと思えたり、量子的考え方だなと思えるようなことが出てきます。天才的直感はすごいものです。

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »