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2010年5月

2010年5月31日 (月)

自己をはこびて万法を修証するを迷とす(現成公案)

「自己(じこ)をはこびて万法(まんほう)を修証(しゅしょう)するを迷(めい)とす、万法(まんほう)すすみて自己(じこ)を修証(しゅしょう)するはさとりなり。」 (正法眼蔵 現成公案)

「自己をはこびて万法を修証する」とは、自分の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとすることです。これが「迷い」だとしています。「万法すすみて自己を修証する」とは、逆に外の世界のほうが自分に向かってきて、言わば外界と自分が一体となっていくことです。これが「さとり」だとしています。悩みの多くは「迷い」が原因となっています。迷うこと自体がよくないことと思い、迷っている自分自身を否定してしまう。そこから悩みがまた膨らんでくる。これを繰り返しているとにっちもさっちも行かなくなってくる。迷っている自分に気がつき、迷いの中にさとりのネタがあるかもしれないと思えれば、迷いで自己否定する気持ちが薄らいできます。

自分のものの捉えかたに注目して、悩みを修正していく心理療法を論理療法といいます。論理療法では非合理的な考え方(イラショナル・ビリーフ)を合理的な考え方(ラショナル・ビリーフ)に修正していきます。非合理的な考え方を修正する手段として、「自己をはこびて万法を修証する」アプローチを「万法すすみて自己を修証する」アプローチに転換してみるのも有効だと思います。

2010年5月29日 (土)

「思ひきり、身心ともに放下すベし」(正法眼蔵随聞記)

「思(おも)ひきり、身心(しんじん)倶(とも)に放下(ほうげ)すベし」(正法眼蔵随聞記4-1)
(訳)思い切って、身も心もともに捨て去るべきである

水野弥穂子さんの訳によって、この段の全文を紹介します。
「仏道を学ぶ人は、身も心もなげすてて、ひたむきに仏法の中に入りなさい。
古人は、「百尺の竿頭にあってさらに一歩を進める。」と言っている。人間というものは、いかにも百尺の竿のさきにのぼると、ここで足をふみはずしたら死んでしまうと思って、いっそう強くしがみつく気持ちがあるものである。
そこをかえって、「思い切って一歩を進める」と言っているのは、「教えにしたがうのであるから、まさか悪いことにはなるまい」と思い切って、すべてを投げ出すように、世渡りの仕事をはじめとして、自分の生活の手段に至るまでも、捨ててしまえばよいのであるが、それがどうしても捨てられないのである。
しかし、その最後のところを捨てないうちは、どんなに、髪の毛についた火をはらうような気持で仏道を学んでいるようであっても、道を得ることはできないのである。思い切って、身も心もともに捨て去るべきである。」

道元禅師の有名な言葉に「身心脱落」があります。「身心放下」も「身心脱落」も同じような内容だと思います。身も心も捨ててしまうということは、自分に対する執着を離脱するということです。仏教には三法印といって、基本となる3つの考え方があります。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つです。この「諸法無我」が「身心放下」と通じています。「諸法」(すべてのものごと)が、「無我」(実体がない)。「実体がない」ということは、そのものだけでは存在していない、ということです。いろいろなものとの関連において存在している。つきつめていくと、宇宙との一体において存在しているということです。

最近は、携帯電話を当たり前のように使っていますが、考えてみれば不思議なものです。あんな小さな道具で、音声を電波に換え発信し、電波を音声に換え受信する。百年前の人が、携帯電話に出会ったら幽霊が出たかと思うかもしれません。本当かどうかは定かではありませんが、人間からは念波という一種の電磁波のようなものが出されていて宇宙中と交信しているという説があります。頭の中に高性能の携帯電話のようなものがあるとすれば、そんなにおかしな考え方でもないと思います。脳波というのは一種の電磁波ですから。ユングのいう集合的無意識というのは、この脳内携帯電話によるコミュニケーションではないだろうかと思ったりもします。

一尺は約30cm、百尺竿は30mの竹竿です。、「百尺竿頭上なほ一歩を進む。」とは、30mの竹竿をてっぺんまで登ってさらに一歩進めというわけです。百尺竿頭の出典は景徳伝灯録です。「百尺竿頭不動の人、然も得入すといへども未だ真となさず、百丈の竿頭須らく歩を進むべし。十方世界是れ全身」 つまり、30mの竹竿のてっぺんからさらに一歩を進めば、十方世界是れ全身になるといっています。十方世界というのは宇宙ですから、宇宙と一体になれるというわけです。これは一種の比喩的表現で、これが限界だと思っていたものを一歩進めると別世界が開けるということです。百尺竿は、いってみれば自分がしがみついてきたものです。百尺竿をどう捉えるかによって、いろいろな解釈ができます。「今まで引きずってきた人生」「世間の常識」「ハードル」・・・。自分にとっての百尺竿をじっくりと吟味してみると面白いと思います。

最後にカウンセリングとの関係を考えて見ます。うつ病は、身心放下できないから起きるともいえます。意識が自分自分へと向かって、ぐるぐる回りして、その輪から抜け出せなくなる。百尺竿を登ったり降りたり、堂々巡りをしている。なるようになれと、開き直って、百尺竿から一歩を踏み出せば、うつ状態から抜け出せると思います。

2010年5月28日 (金)

耳に聴入れぬやうにして忘るれば (正法眼蔵随聞記) 

「耳に聴入れぬやうにして忘るれば」      (正法眼蔵随聞記) 

(訳)相手の議論も、聞こえないようにして、気にかけないと、

この段の全文は次のようになります。
「直饒(たとひ)我れ道理を以て道(い)ふに、人僻事(ひがごと)を言ふを、理を攻て言ひ勝つは悪きなり。次に我は現に道理と思へども、「吾が非にこそ。」と言つて負けてのくもあしばやなると言ふなり。ただ人をも言ひおほせず、無為にして止めるが好きなり。耳に聴入れぬやうにして忘るれば、人も忘れて怒らざるなり。第一の用心なり。 (正法眼蔵随聞記 2-7-2)
(訳)よしんば自分は道理にかなったことを言っているのに、相手が間違ったことを言っても、理屈で攻めて相手を言い負かすのはよくない。また次に、自分では、たしかに自分の方が道理に合っていると思っても、「私が間違っているのでしょう」と言って、負けて引きさがるのも、あきらめが早すぎてよくない。ただ、相手もへこませず、自分の間違いにもしてしまわず、何事もなくそのままにしておくのがよいのである。相手の議論も、聞こえないようにして、気にかけないと、相手も同様に忘れて、怒りもしないのである。何よりも大切な心得である。

この項目はアサーションと関係があります。「僻事を言ふを、理を攻て言ひ勝つ」とは、アグレッシブ(攻撃的な)態度。「我は現に道理と思へども、吾が非にこそと言ってはやくまけてのく」はノン・アサーティブ(非主張的)な態度といえます。アグレッシブもノン・アサーティブもよくないとしています。

第3の態度が、アサーティブ(主張的)な態度です。主張すべきことは主張し、聞くべきところは聞く、I am OK. You are OK. という態度です。「第四の生き方」(アン・ディクソン著、つげ書房新社)に、アサーティブな行動を実現する11の権利が載っています。
1.私には、自分の要求を言葉に表し、日常的な役割に縛られない一人の人間として、物事の優先順位を決める権利がある。
2.私には、賢くて能力のある人間として、対等に敬意をもって扱われる権利がある。
3.私には、自分の感情を言葉で表現する権利がある。
4.私には、自分の意見と価値観を決めて言う権利がある。
5.私には、「イエス」「ノー」を自分で決めて言う権利がある。
6.私には、間違う権利がある。
7.私には、自分の考えを変える権利がある。
8.私には、「わかりません」という権利がある。
9.私には、欲しいものを欲しいといい、したいことをしたいという権利がある。
10.私には、他の人の問題に責任をとらなくてもいい権利がある。
11.私には、人から認められることを当てにしないで、人と接する権利がある。

アサーションは、女性の人権保護の動きの中で発達してきたため、「権利」という言葉が使われていますが、「○○してもかまわない」といったような言葉に置き換えてみると、よりしっくりと入ってくると思います。
1.自分の要求を言葉に表し、日常的な役割に縛られない一人の人間として、物事の優先順位を決めたほうが、自主的に生きられる。
2.賢くて能力のある人間として、対等に敬意をもって扱われる権利がある。
3.自分の感情を言葉で表現すると、生き生きとした毎日が送れる。
4.自分の意見と価値観を決めて言うと、自主的に行動できる。
5.「イエス」「ノー」を自分で決めて言うと、自律的な日々が過ごせる。
6.間違ってもかまわない。
7.自分の考えを変えてもかまわない。
8.「わかりません」と言ってもいい。
9.欲しいものを欲しいといい、したいことをしたいというと、生き生きとした毎日が送れる。
10.他の人の問題に責任をとらなくてもかまわない。
11.人から認められることを当てにしないで、人と接すれば、裏切られることはない。

最近最もアサーションが必要とされているのは、女性よりも男性、特に、中高年男性ではないかという気がします。職場では上下に気を使い、家庭での居場所もすくない。
中高年男性のためのアサーション教育をもっと充実すれば、ストレス開放につながり、うつ病者が少なくなるかもしれません。
道元禅師は、望ましい姿勢としてアサーティブな態度を勧めてはいません。「ただ人を言ひおほせず、無為にして止めるが好きなり。耳に聴入れぬやうにして忘るれば、人も忘れて怒らざるなり、第一の用心なり」としています。平たく言うと、「くだらないことは、気にせず、かかわらず、ほっぽっておけ」ということです。

2010年5月26日 (水)

吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり (正法眼蔵随聞記)

「吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり」   (正法眼蔵随聞記)
(訳)自分を捨て去るには、無常を観ずることが、第一の心得である。

吾我(自分に対する執着)を具体的に言うと次のようなものだと思います。目立ちたい、もの知りといわれたい、名誉ある地位に着きたい、人の上に立ちたい、金持ちになりたい・・・。より、抽象的にいえば、他人と比較して優越感に浸ること、逆に劣等感に陥ること、自分の欲望が満足されればいいと考えること、などとなりましょうか。
仏教的に、吾我を「煩悩にとらわれること」と定義してみます。「煩悩」については、仏教における深層心理学とされている唯識が参考になります。唯識では、通常の意識の下に、マナ識という深層心理があり、4種類の「深層根本煩悩」があるとしています。この「深層根本煩悩」は、意識のレベルで6種類の「根本煩悩」と20種類の「随煩悩」を生み出します。
マナ識の「深層根本煩悩」には、次の4つがあります。
我癡:無我ということへの無知
我見:自分にこだわるものの見方
我慢:自分を誇り頼ること
我愛:自分に執着すること
いずれも、自分、自分へと意識が集中することから煩悩が出てきます。
 意識の「根本煩悩」は次の6種類です。
 貪 :病的な欲望
 瞋 :過剰な自己防衛・攻撃性
 癡 :どう生きたらいいのか、筋道がわからないこと
 慢 :自分と人を比べる心
 疑 :アイデンティティが確立していないこと
 悪見:あやまった見方
最初の3つを、仏教では三毒といって、特に戒めています。
20の随煩悩について解説していくと長くなるので、また別の機会にすることにします。では、無常を観ずるとなぜ吾我を離れることができるのでしょうか? 
「無常」というと、まず思い出すのは、平家物語です。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。・・・
「無常」という言葉は「無情」と音が同じなので、「はかなさ」を連想してしまいますが、本来の意味は、時々刻々ものごとが移り変わっていくということです。従って、盛者必衰があれば衰者必盛もあるはずです。今日の自分は昨日とは生まれ変わっている。六道輪廻といって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界に生死を繰り返すという考え方があります。衆生が作り出す業によって、次の世界が決まってきます。今は、天国とか地獄を信じている人はあまりいないと思いますが、天国のような心の状態、地獄のような心の状態と考えれば、人は、刹那刹那いろいろな心の状態を輪廻しているとも言えます。
四十二章経という初期のお経の中で、「呼吸の間にいのちあり」ということが説かれています。
 或る時、釈尊は一人の修行者に、次のように質問された。
 「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
 「数日の間だろうと思います」
 「あなたは、まだよくブッダの教えを究めていません」
 また、釈尊は別の修行者に質問された。
 「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
 「食事をしているくらいの時間だろうと思います」
 「あなたは、まだよくブッダの教えを究めていません」
 また、釈尊は別の修行者に質問された。
 「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
 「ひと呼吸の間だと思います」
 「そのとおりです。あなたはよくブッダの教えを究めているといえます」

自分への執着は自分という存在がずっと続くと考えるところから生まれてきます。
ところが、自分も含めすべてのことは刻々と移り変わっている。今日の自分は、昨日の自分からは独立している。明日の自分も今日の自分からは独立している。このように考えると、自分に執着していても意味がない。
道元禅師は、正法眼蔵の中では「前後裁断」という言葉を使ってこのことを説明しています。「諸行無常」も「前後裁断」も同じことを言っていると思います。これはカウンセリングにとってとても重要なことだと思います。悩みはある意味では、過去の自分にとらわれるところから生まれます。「昨日は昨日」「今日は今日」と、断ち切ることができれば、多くの悩みは消えていくはずです。

2010年5月25日 (火)

「はづべくんば明眼の人をはづべし」(正法眼蔵随聞記)

「はづべくんば明眼の人をはづべし」    (正法眼蔵随聞記)

(訳)人の批判を気にするなら、物の道理を見通せる人からの批判を気にすべきである。

キーワードは「はづ」です。仏教には、慚愧という言葉があります。親鸞聖人は『教行信証』の中で、
 「慙」はみずから罪を作らず、「愧」は他を教えてなさしめず。
 「慙」は内にみずから羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。
 「慙」は人に恥ず、「愧」は天に恥ず。これを「慙愧」と名付く。 と言っています。
自分自身に向かって恥ずかしいと思うことが「慙」で、外に向かって恥ずかしいと思うことが「愧」です。「自ら慙じず、天に愧じず」。明治時代の修身の本に出てきそうな言葉ですが、いい言葉だと思います。稲盛和夫さんは、「動機善なりや、私心なかりしか」と言いましたが、これも慙愧を表現したものだと思います。
もう流行らなくなった言葉に「お天道様が見ているよ」というのがあります。今は「見つからなければ、何したっていいじゃないか」の方が幅を利かせている。さらに電車の中で化粧をする人や、床にペッタリ座っている学生たちを見ていると、見られていようがいるまいが無頓着といった感じです。
「はづべくんば明眼の人をはづべし。」で言おうとしていることは、「物の道理を見通せる人からの批判を気にしろ、どうでもいい人からの批判は気にするな」ということです。カウンセリング的に言うと、「過度の対人過敏はやめておけよ」となります。

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