2012年11月 3日 (土)

アイデア創出にヒントとなる言葉

アイデア創出にヒントとなる言葉を集めてみました。


『アイデアを作り出す五つの段階
  ①データ収集 ②咀嚼 ③孵化 ④ユーレカ ⑤実現化・具体化』            (ジェームス・ヤング)
『アイデア創造のコツは、既存の要素の新しい組合せに夢中になることである』      (ジェームス・ヤング)
『アイデアは、相手から引き出せばいい』
『アイデアは、人に話すと発酵する』
『アイデアは、歩いている時に出てくる』
『アイデアをもっている人は限られている』
『創造は省略から始まる』
『構想力とは問題を限定する能力のことである』
『集中力とは自分が問題そのものになることである』
『例題を考え、解くことが理解を深める最もよい方法である』
『あと一回だけトライしてみよう』                                      (エジソン)
『自分の頭で徹底的に考え抜く人は本当にまれにしかいない』                   
『最初のひらめきが良くなければ、いくら努力してもダメだ』                      (エジソン)
『もっともらしい考えの中に、新しい問題の解決の糸口はない』                 (エジソン)
『創造性とは非常識にやることなり』                                (西堀栄三郎)
『発見は偶然の賜物ではあるけれど、用意された精神にのみ起こる」               (パスツール)
『問題意識があると見えなかったものが見えてくる』
『理詰めでものごとを考えることによって新しい発見をしたことは、私には一度もない』     (アインシュタイン)
『創造的なアイデアを探しているのならば、散歩に出なさい。  
天使が人にささやきかけるのは、人が散歩している時です』                (レイモンド・インモン)
『創造的な活動には、予測できない要素がつきものである。試行錯誤の中で行うものだからだ。
  ①曖昧さに耐えうる忍耐力
  ②内的な安定性(心の安らぎ、強さ)
  ③原則に対する誠実さの 三つが必要である』                     (スティーブン・R・コヴィー)
『アイデアの秘訣は執念である』                                  (湯川秀樹)
『未来からの呼びかけを感度を高めて受信する』
『色々な時間のものさしで考察する』
『発見は対象知によって起こるのではなく、方法知によって起こる』            (マイケル・ポランニー)
『科学的発見には、
  ①推測するためのアート、
  ②未知のものを見るスキル、
  ③それが妥当であると判断する標準性  
   の3つが必要である』                                  (マイケル・ポランニー)
『開発のコツは2つある。コツコツとやることだ』

2012年10月24日 (水)

時間はすべての人に平等に与えられている

金持ちもいれば貧乏人もいる。お金はすべての人に平等には与えられていない。
肩書き地位も平等に与えられるものではなさそうだ。すべての人に平等に与えられるものは時間だけのような気がする。平等に与えられている時間をいかに味わい深いものにすることができるかどうかで、人生の濃さが決まってくるようである。

「頼むなら忙しい人に頼め」と言われる。忙しい人は持ち時間が少ないのだから、暇な人に頼む方が確実なように思われるが、そうではないのである。なぜなのか?

まず考えられるのは、暇な人は仕事をこなす能力に欠けていることが考えられる。頼んでも、それをこなす能力がなければ、アウトプットは望めない。
 
次に考えられるのは効率的に処理する能力に欠けているということである。関連データをたくさん持っている。似たようなことをやったことがあれば、それを応用できる。

ポイントを掴む能力も重要である。「パレートの法則」というのがある。80:20の法則ともいわれている。効果の80%は20%の部分が占めているということである。重要な20%に部分を掴む能力が重要になる。

すぐに取り掛かる癖を持っているかどうかも重要である。言われてもなかなか手をつけない人がいる。他にやらなければならないことがあるとか気分が乗らないとか色々と言い訳をしてなかなか取り掛からない。「その場処理」を原則としておけば、何事もスピーディーである。

2012年8月23日 (木)

お釈迦さまのカウンセリング No6 【心とは】

 【心とは】                           お釈迦さまのカウンセリング No6
**********************************************************************
          心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。
          その心をおさめることは善いことである。
          心をおさめたならば、安楽をもたらす。
**********************************************************************
                                            法句経 第35偈

「こころ」とは一体なんでしょうか。「心」という漢字はもともと心臓を象形したものです。
古代中国人は心臓で精神作用が営まれていると考えました。知識・感情・意志の
いわゆる知・情・意をつかさどるものとしたわけです。最近では脳科学の発達から、
脳が知・情・意を生み出しコントロールしていると考えられていまが、内臓や皮膚も
かかわっているという説もあり、はっきりとはしていない部分も多いようです。

いずれにしても、法句経第35偈にあるように、心とは勝手に動き回りコントロールの
難しいものです。修行とは心をコントロールすることができるようになることとしても
いいように思います。

フロイトは、心が「自我」「超自我」「エス」の3つの構造からなっていると考えました。
「自我」とは、私のコントロール・タワーです。「超自我」とは、親の教育などによって
形成された価値判断です。「エス」とは本能的エネルギーです。自動車の運転に
たとえると、「自我」は運転者、「超自我」はブレーキ、「エス」はアクセルにあたります。

江戸時代初期の至道無難禅師が面白い歌を作っています。
 心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな
最初の心はフロイトのいう「エス」です。二番目の心は「自我」だと思います。
どんな人にもジギルとハイドのように心には葛藤する人格が存在すると考えて
おくことが、人間理解の前提になるような気がします。

2012年8月19日 (日)

お釈迦さまのカウンセリングNo5 仏教における人間観 【一切皆苦】

仏教における人間観 【一切皆苦】
                                           お釈迦さまのカウンセリングNo5
********************************************************************************
       一切の形成されたものは苦しみであると明らかな智慧をもって観るときに、
       ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
********************************************************************************
                                                   法句経 第278偈


「四苦八苦」という言葉がありますが、これはもともと仏教の言葉です。「四苦」とは、生・老・病・死、
すなわち、生まれて、老いて、病気になり、死ぬ、四つの苦しみをいいます。生・老・病・死に「愛別離苦
(あいべつりく)」 「怨憎会苦(おんぞうえく)」 「求不得苦(ぐふとっく)」 「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」を
加えて八苦といいます。

「愛別離苦」とは愛する人と別れる苦しみです。
「怨憎会苦」とは、いやな人、嫌いな人とも会わなければならない苦しみをいいます。
いやな上司であれば、毎日毎日「怨憎会苦」の苦しみを味わうことになります。
「求不得苦」とは、お金や物、地位や名誉など求めるものが手に入らない苦しみです。
「五蘊盛苦」の五蘊は、人間を肉体と四つの精神作用(感受作用、表象作用、心的形成作用、認識作用)
で捉えたものです。五蘊がうまく和合しているときはいいのですが、五蘊仮和合の実体ですから、
生きるエネルギーはどこかで不調和を生じ苦しみの原因になります。身心を思うようにコントロール
できない苦しみです。

お釈迦さまのいう「苦しみ」とは、「思い通りにならないこと」という意味です。
「一切のことは思い通りにならないものだ」と思っていれば、悩むことは少なくなります。
ただ「思い通りにならないものだから、努力することも意味がない」とすねてしまうのは、
お釈迦さまの教えとは反します。お釈迦さまは、不放逸(ふほういつ)ということをとても大切にされました。
怠けないということです。
怠けないで努力し、それが結果に結びつけば、「ありがたいことだ」と感謝することです。
えてしていい結果が出ると人は傲慢になります。つつしんでいきたいものです。

2012年8月16日 (木)

お釈迦さまのカウンセリングNo4 仏教における人間観 【諸法無我】

仏教における人間観 【諸法無我】
                                          お釈迦さまのカウンセリングNo4
********************************************************************************
      一切の事物は我ならざるものであると明らかな智慧をもって観るときに、
      ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
********************************************************************************
                                                  法句経 第279偈

一般的には、「我」とは「自我」、すなわち意識者が他の意識者及び対象から、自らを区別することを言い
ますが、仏教における「我」は少々意味が違います。お釈迦さま以前のインド哲学者たちは、我々の中に、
固定的実体があるように考え、それをア-トマン(我)と名づけました。ア-トマン(我)とは、ちょっと難しい
言葉ですが、「常一主宰」と定義されています。単独でなりたち、常住で変化しない存在で、すべてのもの
を統率し支配しているものを支配しているものという意味です。

冒頭の偈は、すべてのものは、「常一主宰でないもの」と考えることが、大いなる智慧であって、その智慧
をもってものごとを観ることができるときに苦しみから遠ざかることができる。それが覚りに近づくことだと
言っています。「常一主宰でないもの」とは、すべては移り行くもの(無常)であり、縁によって成り立つ
もの(縁起)であるということです。従って、前回述べました「無常」と「無我」は基本的に同じことです。

「我」は自分への捉われ、自分への執着につながります。悩みは何らかの形で自分へのこだわりと関連
しています。例えばウツ病の場合、「あるべき自分」と「現実の自分」のギャップに悩み、なんとかしなければ
ならないという思いと、どうにもできない現実のギャップに悩む状態と捉えることができます。「諸法無我」
という認知を自分のものとすることは、ウツ病から遠ざかる一つの道を見つけたことにつながります。

2012年8月14日 (火)

お釈迦さまのカウンセリングNo3 仏教における人間観 【諸行無常】

仏教における人間観 【諸行無常】
                                     お釈迦さまのカウンセリングNo3
*************************************************************************
       一切の形成されたものは無常であると明らかな智慧をもって観るときに、
       ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
*************************************************************************
                                              法句経 第277偈

仏教には、お釈迦さまが直接説かれたことに忠実な小乗仏教と、お釈迦さまが入滅して
約300年ほどしてから興隆した大乗仏教の二つの流れがあります。日本でポピュラーなのは、
「法華経」「般若経」といった大乗仏教経典です。「法句経」は小乗仏教の中でとても
ポピュラーな経典です。冒頭に掲げた句は、「諸行無常」としてわれわれが認識している
事柄を解説したものです。
この世の中で常なるものは何もなく絶えず変化している。それをよく理解していれば、
  苦しみから逃れることができる。これこそが覚りに至る道である。

諸行無常という言葉から、まず頭に浮かんでくるのは、平家物語の冒頭の一節ではないで
しょうか。
 祗園精舎の鐘の声、
  諸行無常の響きあり。
  娑羅双樹の花の色、
 盛者必衰の理をあらわす。
 おごれる人も久しからず、
  唯春の夜の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、
  偏に風の前の塵に同じ。
栄華を極めた平家一族の滅亡を諸行無常の響きと修飾しているので、「諸行無常」という
言葉から連想されるのは、「はかなさ、むなしさ」だと思います。

方丈記の冒頭も諸行無常を説いています。
  行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
  世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
ここから受ける印象も、やはり「はかなさ、むなしさ」だと思います。

前回のメルマガで、人間は肉体と四つの精神作用(五蘊)から成り立っていて、これらは
全て移ろい行くもので、変わらないものはないという仏教の人間観を紹介いたしました。
諸行とは一切のことという意味ですから、人間に当てはめれば「五蘊無常」ということに
なります。
平家物語、方丈記の印象が強烈なので、諸行無常=むなしさ、はかなさ、と感じてしまい
ますが、もともとの意味は「全ては恒久的でなく変化する」という意味で、むなしさ、
はかなさという意味ではありません。

兼好法師は、「諸行無常」を逆に変化するから面白いというポジティブな解釈をしています。
  世の中は定めなきこそいみじけれ。(徒然草 第7段)
  折節の移り変わるこそものごとあはれなれ。(同 第19段)
ポジティブにみれば、無常であるからこそ、人間が努力して向上することもできるわけです。

道元禅師は、「志の至らざることは無常を思わざる故なり」として、無常を人間が行動して
いく上での起爆剤としてとらえています。

2012年8月13日 (月)

お釈迦さまのカウンセリングNo2 仏教における人間観【五蘊仮和合】

仏教における人間観【五蘊仮和合】

                                 お釈迦さまのカウンセリングNo2
********************************************************************
           五蘊仮に和合するを名づけて衆生と云うなり。
********************************************************************
                         (三重秘伝抄)
お釈迦さまは、人間を肉体(色)と4つの精神作用(受・想・行・識)に分けて考えました。
この色・受・想・行・識を五蘊といいます。4つの精神作用は次のように解釈されています。
「蘊」とは塊りという意味です。
 受(感受作用)    :六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)を通して外界に
              あるものを受け入れる心の作用のこと
 想(表象作用)    :感覚から生じる認識、イメージとしてはっきり思い描くこと
 行(心的形成作用) :「想」に基づいて起る意志や行動の善悪に関する心の作用
 識(認識作用)   :「受」・「想」・「行」の作用を起こす根本の意識

摩訶止観によると、「識」が心王(心の主)となると説かれています。カウンセリングの
論理療法における「ビリーフ」、認知療法における「スキーマ」に当たります。何かが
起きた時に自動的に心に浮かんでくる考えを認知療法では「自動思考」といいますが、
「想」は「自動思考」と考えることができると思います。「自動思考」と「スキーマ」に
影響されながら、心に色々な思いが形成(「行」)されてきます。
心の作用を「受」「想」「行」「識」に分析し理解したことは、認知療法における心の
分析ととてもよく似ています。

仏教では、この肉体と4つの精神作用が仮に一緒になったものが人間だと認識します。
相応部経典では、
「人の肉体は渦巻のごとくである、
その感覚は泡沫のごとくである。
その表象はかげろうのごとくである、
その意志は芭蕉のごとくである、
その意識はまぼろしのごとくである。」としています。
肉体も心の動きもすべて移ろい行くもので、変わらないものはないという認識です。

2012年5月19日 (土)

【人身受け難し -仏教における人間観-】

  
                                   お釈迦さまのカウンセリングNo.1
***********************************************************************
  人身を受けることは優曇華の時に乃ち現れるが如く、盲亀の浮木に遭うがごとし。
***********************************************************************

優曇華(うどんげ)とはインドで古くから神聖視される樹木で、毎年花が咲きますがその花
は外からは見えません。そこで3000年に一度だけ咲く極めて珍しいものとして稀有な出来
事のたとえに用いられるようになりました。盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえは、大海に
住む盲の亀が100年に一度海中から顔を出し、たまたま流木の孔に出会うという千歳一隅
の偶然性を表しています。つまり、人間として生まれてくるのは、確率の非常に低い宝く
じに当るようなもの。めったにないチャンスを与えられたものだというのが仏教的人間観
です。

この千歳一隅のチャンスをどう考えるか。いろいろと解釈できますがここでは、2つのこ
とに絞ってみたいと思います。

1)人として生まれてきたことに感謝する。
仏教には衆生という言葉があります。命あるもの、心を有するものといった意味で、人間
だけでなく一切の動物が対象になります。インドには輪廻という考え方がありました。本
生譚というお釈迦様の前世を描いた物語があります。虎であったり、オウムであったり色々
な動物がお釈迦様の前世の姿として描かれています。前世での功徳が積み重なって人間と
して生まれてくることができる。人間として生まれることができたのは、とてもありがた
いことであるというのが仏教における人間観です。
「前世」「来世」といった考え方を受け入れる人は少ないと思いますが、人間は朝生まれて夜
死ぬといった人生を毎日繰り返していると考えれば、今日という人生を精一杯生きようと
いう気になります。

2)怠けずにコツコツと。
仏教では「不放逸」ということをとても大切にします。なまけないこと、怠惰でないこと、
散漫でなく専心することといった意味です。「精進」も同じような意味ですが、人間は本来
怠けがちなもの、だから自分を律していくことが大切だというニュアンスを感じさせる「不
放逸」ということを肝に銘じて生きたいものです。

2012年3月17日 (土)

「死ぬ瞬間 -死とその過程について-」 エリザベス・キューブラー・ロス著 中公文庫

訳者の鈴木晶さんのあとがきによると、ターミナルケアに関心を寄せる人々にとっての「聖書」と呼ばれている本ということです。エリザベスはキューブラー家の3女として1926年にスイスで生まれました。1958年に、イマニュエル・ロスと結婚し、アメリカに渡りました。詳しくは自伝「人生は廻る輪のように」を参照していただきたいと思いますが、離婚、放火被害、チャネリング、宇宙意識体験などドラマチックな体験をずいぶんとしています。

著作の構成は次のようになっています。

1 死の恐怖について

2 死とその過程に対するさまざまな姿勢

3 第一段階/否認と孤立

4 第二段階/怒り

5 第三段階/取り引き

6 第四段階/抑鬱

7 第五段階/受容

8 希望

9 患者の家族

10 末期患者へのインタビュー

11 死とその過程に関するセミナーへの反応

12 末期患者への精神療法

癌のような致命疾患に取り付かれた患者は、次の5段階の心の状況を経るというのが本書のポイントです。

1.     否認:「私のことじゃない。そんなことがあるはずない」という思い

2.     怒り:「どうして私なのか」という怒り

3.     取り引き:「避けられない結果」を先に延ばすための交渉

4.     抑鬱:健康を失ったという喪失感と、死を迎えるための心の準備からくる憂鬱

      感

5.     受容:長い旅路の前の最後の休息

日本人にちょっと判りにくいのが「取り引き」だと思います。キリスト教徒は、ほとんどの場合、取り引きの相手は神になるとのことです。少しでも命を延ばしてもらえるなら、「人生を神に捧げる」とか「教会に奉仕する」ことを約束する患者が大変多いということです。日本人には「神にすがる」と言った感覚の方がしっくりとくるかもしれません。忠臣蔵に見られるように、美しい死で人生を完結する美学の精神が少しは残っているような気もします。

忘れてならないのが、この5段階のすべてにおいて「希望」が存在しているということです。ひょっとすると、がんの新薬が開発されて助かるかもしれないといった「希望感」をどこかに持っている。医者がさじを投げるような態度で患者に接することを戒めています。

「否認」「怒り」「取り引き」「抑鬱」「受容」「希望」は、一種の防衛メカニズムです。病気に限らず、耐え難い状況に陥ったとき、自分で自分を守るため、納得させるために、色々な防衛メカニズムに頼るようです。

仕事の関係で、阪神淡路地震が起きた3日後に芦屋、神戸を調査したことがあります。そのとき不思議だったことは、震災に遭遇した人々があまり落ち込んでいるように見えなかったということです。おそらく第4段階の「抑鬱」まで達していなかったのだと思います。しばらくしてからガクっと落ち込んだ人が大勢いたということをニュースで知り、「そうだろうな」と思ったことを覚えています。

「死生観」について少しまとめてみたいと思います。道元禅師の正法眼蔵「生死」の巻に、次のような一節があります。

『この

生死

(

しょうじ

)

は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり。』

(現代語訳)われの命は、仏の御命である。これを厭い捨てようとするのは、仏の御命を失うことである。これにとどまって生死に執着するのは、仏の御命を失い、仏をただ表面的に理解することである。

仏教では、すべては「苦」であるという認識に立っています。四苦八苦という言葉は元々仏教の言葉で、「四苦」というのは、「生・老・病・死」、すなわち、生まれること・老いること・病気になること・死ぬことです。では何のために生きているの? 楽しむために人生はあるんじゃないの? と反論されそうです。ちょっと逆説的になりますが、「みんな苦しくて当たり前、だからこそ、他の人が幸せになることが自分の幸せ(利他のこころ)」と整理するのです。「慈悲のこころ」と言いますが、「慈」と言うのはインドの言葉では「マイトリー」です。これは「友」を表す「ミトラ」という言葉の派生語で、友愛を意味します。漢訳では「与楽」(他者に利益や安楽をあたえること)としています。「非」というのは「カルナ」と言う言葉からきています。他者の苦に同情し、そこから抜け出せるようにしてあげること、漢訳では「抜苦」としています。「慈悲のこころ」は、カウンセリングでいう「受容共感」と共通したところがあると思います。

少し話がそれてしまいましたので元に戻します。「生死」すなわち人生は、「仏の御命」であるというのが、道元禅師の解釈です。「仏」を「自然の摂理」とか「宇宙」と読み替えると解りやすいと思います。「個体発生は、系統発生を繰り返す」といいます。胎児は、魚の段階、爬虫類の段階、哺乳類の段階という進化を母親のお腹の中で経て、人間として生まれてくるという説です。生物には必ず、親がいます。進化をさかのぼっていけば、35億年前の原始生命体に行き着くわけです。そうすると自分という存在には35億年間の進化の過程が凝縮されているわけです。

太陽は中くらいの重さの恒星で、その輝きは水素がヘリウムに核融合するときのエネルギーです。温度が足りないため、ヘリウムの核融合は起きません。太陽の8倍以上の質量の恒星になると、核融合がさらに進み、炭素、酸素、マグネシウム、珪素へと進行し次々と重い元素が生まれ、最後に鉄になります。鉄は核融合を起こせないため、恒星の中心部は冷えてきます。すると重力収縮に耐え切れず最後は大爆発します。これを超新星爆発といいます。すると色々な元素は宇宙空間に飛び散って宇宙の塵となります。太陽系は、この塵が集まってできたものです。人の身体には鉄が含まれています。これは太陽が生まれる前に起きた超新星爆発の残骸なのです。こうしてみてくると人は宇宙の進化の凝縮でもあるわけです。

したがって「生」は宇宙から与えられたものであって、「死」は与えられた「生」を宇宙へお返しするものと考えるのが、とても自然な考え方と思えるのです。

さて、キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」の各章の冒頭には、インドのノーベル賞作家のタゴールの詩が引用されています。一例を挙げると、第一章の冒頭には、

『危険から守られることを祈るのではなく、

恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。

痛みが鎮まることを祈るのではなく、

痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。

人生と言う戦場における盟友を求めるのではなく、

ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。

恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、

ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。

成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、

自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、

そんな人間になれますように。』

タゴールの詩は、とても奥深く、聖路加病院の日野原先生は著書「老いを創める」の中で、次のように言っておられます。

『タゴールの詩に私は自問する。

私たちに、あるいは次の誕生日を待たずに来るかもしれないこの世との別れのときに、私たちのたずさえる袋は、財や名誉でふくらみ、手ひもが切れそうになった袋か、あるいはタゴールのいう、人に多くを与えてしまった頭陀袋、だが友人の愛と赦しとを、つつましやかに入れた頭陀袋なのか。

  老いても、死の床にあっても、タゴールのようなつつましやかさで、思いを口述したり、素直な言葉で友に語れる人になりたい。』

2012年3月16日 (金)

「憂うつの心理」外岡豊彦 柏樹社

著者は、「抑うつ友の会」を創設し、うつ病の自助グループを主宰していた方である。うつ病に悩んでいる人の心理を実によくとらえており、提案している対処法も適切であると思う。うつ病理解のためにはぜひ読んでおくといい本である。

本の構成は次のようになっている。

第1部 うつ状態の正しい理解のために

 1.うつ状態に陥りやすい人の特徴

 2.うつ状態へ誘う諸状況

 3.うつ状態への傾斜時の自覚

 4.“死んでしまいたい”という気持ちをめぐって

第2部 ふさわしい対策の心得

 1.うつ状態での基本の心得

 2.ともかく主義のすすめ

 3.歩くことのすすめ

 4.うつ状態心得経

 5.第2部の補い

「因縁」という言葉がある。元々は仏教の言葉である。「因」は原因のこと、「縁」は環境のことである。「因縁」でうつ状態をとらえてみると、「因」がうつ状態になりやすい人の特徴、「縁」がうつ状態へ誘う諸状況と言うことになる。

著者は、「因」として次の6つを挙げている。

1.怠らず努力をつづける生き方

2.いろいろの物事にきまりのある秩序好み

3.人に悪く思われない配慮、家族や仲間のために尽くす、他者評価を重んじる価値観

4.良心的、自罰的で後悔の念が強い、職責感が強い

5.失敗経験が少なく順調な育ち

6.高い自己概念

つまり、うつ状態になりやすい性格の人は、努力家で、人への配慮が細やかで、責任感が強く、理想も高い、とてもいい人なのである。問題なのは失敗体験があまりなく(打たれ弱い)、やりすぎてしまうことである。

認知療法的に言うと、「べき思考」が強く、「対人過敏」で、「完全壁」があり、「自罰の念」が強い人がなりやすい。うつ状態になりやすい人は、こういった「自動思考」に陥りやすい。したがって、「認知(受け止め方)」を次のようにするような癖をつけていくといい。

1.100点を取らなくてもいい。70点で十分

2.いつも優等生でなくてもいい、たまには悪ガキもいい

3.他人は他人、自分は自分、人の評価は気にしない

4.うまくいかなくても、自分だけが悪いのではない

うつ状態にならなければそれに越したことはないが、なってしまった場合の対処の方法が第2部にまとめてある。

基本的な心のもち方として、次の3点が挙げられている。

1.精神的な具合の悪さを主とするが、本質的には生理的変調(間脳関係の内分泌の 変調)と同じような理解がむしろふさわしい

2.普通の心理状態の心の明暗の範囲をこえた、ある意味で“病的な範囲”に属す状態ととらえ、自他ともに常識的な考えをおしつけないこと

3.遠からず、元通りに直ること

そして、「ともかく主義」と「歩くこと」が進められている。「ともかく主義」というのは、「今ここで、何ができ得、どうするか」だけを、ともかくも決めて行っていくことである。うつ病になる人は、理知的なため、頭で考えすぎてしまう傾向がある。頭の中でぐるぐると思いを廻らし、現実の行動ができなくなってくる。「歩くこと」は心が自分の中へ中へと向かっていくのを方向転換させる効果がある。外岡さんの言葉を借りれば「心労過大、身労過小」の状態をバランスよく戻すことである。

「うつ状態心得経」が第4章に提案されている。少々長くなるが、大変参考になるため、引用する。

人の世に生きる 諸苦ありといえども うつの苦悩に勝るもの少なし

痛み強きに非ず 吐気・高熱・震えあるにあらず

言動概ね意にかない 読・書・算可能なり

然も猶うつの苦悩を最となす所以を尋ぬるに

自ら肩身せまく思い 自己不許可し 自ら己を責むるにあり

他者の吾を責むるは避くるに途あれども

自己の己を責むるは逃るるに処なく 離るるに時なし

しかあれども うつにありて心得べき智慧あり

一つには 一時気休めを計るなり

各人 気の休まる事・処必ずあり 自ら尋ね工夫すべし

二つには 一時切抜けを策すなり

心身低調といえども 一時なれば必ず事を処す力あり 他者の助けまた利すべし

時過ぐるのみにても切抜け得ること少なからず

三つには 一時自他をごまかすべし

うつなるを自にも他にもごまかし装うなり 之も亦勝智慧なり

一時なればなしあたわざるに非ず

四つには 暫く忍耐と心定むるなり

うつに陥り至る日時の積重しゃくじゅうあり 然れば復するに日時を要す 暫く

じっと耐ゆるを主とすべし

五つには 刻々現状肯定に努むべし

自己自身の現状及び為すところ 是認しがたしといえども 今ここに限り思わば

現状のままにても 障礙なき時と処とあるを自覚し得ん この自覚に従い

自責の中断を意図すべし

心身の不調すこしく回復し来たりなば この時を利し 心静かに省みるべし

1.従前のわが生 望むこと概ねものたりて過し来たり 望みはかなうが当然と思いなし

   執着努力に偏らざりしやと省みるべし 思うにまかせぬことあるが世の常と観ずべし わが心身もまた思うにまかせぬことあるを認むること 肝要ならん

2.又、わがなし来たれる処 わが思いを主となし 他者への配慮豊かに似たれども 他者の吾を悪く思わざらんの想いが主ならざりしやと省みるべし 

うつの苦悩に陥りたるをよすがとなして 他者の困危に出遇わば いささかなりと力を貸さんといとなむべし 利他行の不可思議の功徳 必ず己にも還り来たりて うつ状態軽癒の恵みあらんと信じ努むべし

更に根源を裁断せんと欲すれば 他者さして吾を斯く肩身せまく思い自らを許さざる その故如何と自問すべし 斯くなりたる因を悔ゆるに非ずして 何に據りてか斯く分別するやと静慮じょうりょすべし

自得するところあらば苦悩を減ずるのみに非ず

おのずか契かなうところあらん

«時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある。これ有時なり。(有時)